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竹田 歴史講座

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『置賜の虎列刺(コレラ)感染について』渡邊敏和氏 


 寄稿者略歴 watanabeto
 渡邊敏和(わたなべ としかず)
  昭和31年、山形県東置賜郡川西町上小松生まれ。山形県立長井工業
  高校卒業。平成17、18年、川西町獅子頭展実行委員長。 置賜民俗
  学会理事。

                             文・写真 渡邊敏和

 令和二年(二〇二〇)になり、昨年、中国武漢で発生した致死率が高い新型コロナウイルスが日本に上陸し、全世界で多くの死者、感染者を出している。四月に至り、山形県内でも感染者が広がりを見せている。( 四月二十九日現在、県内で六十八人の感染者が出ている。)
 三月二十二日に長井市の旧長井小学校内のギャラリー停車場で個展をしていた青木みのり(長井市出身・東北芸術工科大学大学院で洋画を学び卒業)さんから、新型コロナウイルスの話題で過去の伝染病の虎列刺(コレラ)について調べてみたらとの話があった。
 幕末の安政五年(一八五八)に置賜地方で、初めてコレラ病が流行した、その頃、「コレラ 」は次から次へと感染すると瞬く間に亡くなることが多い事から「コロリ病」とか「三日コロリ」と呼ばれて恐れられていた。
 コレラ(虎列刺と書く)は、中国大陸から朝鮮半島を経て長崎出島に上陸し、全国に伝播して蔓延し、感染して一日か二日で、下痢や嘔吐、発熱して激しく体内から水分が失われて脱水状態となり、多くの人々の命を奪うコレラ菌による腸の急性伝染病である。別名「爆潟病」という。
 日本で初めてコレラが入ってきたのは、文政五年(一八二二)のことで、この時は米沢領内(置賜地域)のコレラ発病者は一人も出なかった。
 しかし、二回目の安政五年八月、江戸でコレラの大流行(凡そ三万人の死者が出たと言われる)があり、藩主斉憲の夫人も罹患した。それで米沢藩では領内での予防を示達を出して気を付けていたが、十月に入り赤湯村(現南陽市赤湯)で罹患し流行したという。赤湯でのコレラ感染の具体的な様子は伝えられていないが、米沢藩の通達に、「 近来、赤湯ニて追々相煩い、死亡之者数多これ有り」とある。
 藩では、十月十七日に藩医の堀内忠亮を赤湯に派遣して治療を命じる(「上杉家御年譜」)と共に、江戸でコレラ治療の実績がある医学勤学生の吉田元碩を急いで帰国させ、コレラ治療方に命じて治療に当たらせた。
 二十一日には、コレラ予防の方法を記して配布している。
それには、
 一、少しの下痢でも直ぐに薬用手当てすること、
 一、便所を清潔にしておくこと、 
 一、身体を冷さぬこと、
 一、大酒、過食、冷物、不熟果物、野菜青漬の類、餅、蕎麦、芋のようにねばり強き物、いるか、鯨、まぐろ、鯖、蛸、鰯のように油濃き物を禁じ、鰹味噌、菊味噌の類を用いること、
 一、いつも芥子粉、麦粉を用意しておき、爆潟(烈しい吐き)等あったら医師を呼ぶ前に「芥子泥」を製して貼り発汗させること
 等とある。コレラ治療には、地元北條郷(現在の南陽市地域)の医師たちも協力して当たったことだろう。
 「平田家萬留書」によれば、
 一、同年(安政五年)中夏、ころりト云頬ニて病死仕候、京都より初り、江戸ニても大勢死ス也、越後国ニては新潟杯ニてハ大勢死なり、
 米沢ニてハト時庭村ニて壱番死、黒沢辺・塩野村杯ハ死なり、と記されている。置賜領内では時庭村(現長井市)が最も多い死者であったという。 
 その後、元治元年(一八六四)にも流行したというが、明治十二年(一八七九)には全国的にコレラが流行し、死者十万人余を出したという。米沢でも旧盆(七月末から八月上旬)ころに、白布高湯から発生し、下流の小野川、赤芝から米沢市内に流行し、各地に蔓延した。米沢城下北部の窪田村(現米沢市窪田町)でも村内で多くの罹患者を出し、四十二名もの死亡者があったという。
 当時、村ではコレラ菌が何なのか知らず、村人は予防法も無く、病気が発生している地域の人を村に入れないようにしたり、念仏講を開いて神仏に祈願する人々や、鉄砲を持ち出して空砲を放つ人など、心を乱し、興奮して奇異な行動をする光景があったと古書は伝える。
 置賜での流行はそれ程長くはなかったが、コレラの知識や、公衆衛生の意識が乏しいことから、数百人もの死者を出したという記録もある。(写真右、下=観世音堂境内と「虎列刺大明神」)

 しかし、安政五年の頃とは異なり、コレラが伝染病で、致死率が極めて高いことが庶民にもcholera-2広まっているところもあって、人々は感染を怖れ、死者の葬列が家の前を通るのも嫌がり、鉄砲や槍、棒などで打ち掛ったりして大騒ぎになったり、流言飛語が飛び交う騒然な社会状況となっていったと伝えられている。 
 多くの罹患者、死者を出した窪田村には、「 虎列刺大明神」という石碑が各地に建てられ、「 米沢藩医史私撰」によれば、当時の人々がコレラの早期収束を祈念して建てた石碑であるという。

 米沢市窪田町矢野目字桐井屋敷、観世音堂境内「虎列刺大明神」
   (石柱・高さ百六十、横幅二十八、奥行き二十二各センチ)
    明治十二年(一八七九)□月□日

 米沢市窪田東江股字樋越、春日神社境内(宮ノ前、荘厳山密蔵院境内と隣接)
   「乕(虎)列刺大明神」
   ( 石柱・凝灰岩〈高畠石〉高さ八十九、横幅三十、奥行き二十一各センチ)

 米沢市窪田町藤泉字谷地田、雷神王神社境内
   「乕(虎)列刺大明神」
   ( 石柱・高さ百二十二、横幅三十三、奥行き二十三各センチ)
     明治〔 〕年八月〔 〕日、講中

 米沢市窪田町小瀬字鎌倉上、田塚神社境内
   「虎列刺神社」
   ( 石柱・凝灰岩〈高畠石〉高さ百二十五、横幅二十、奥行き二十各センチ)、
    一村中

cholera-3 また、米沢市三沢の赤芝町に鎮座する羽黒神社境内には、
「(梵字・サ)虎列刺菩薩」( 自然石・高さ九十、横幅四十六、奥行二十六各センチ)と刻む明治十二季(一八七九)八月三日に一村安全のために建立された石碑(梵字・種子は聖観音菩薩を表す)がある。
(写真右=羽黒神社境内の「虎列刺菩薩」)
 取材した四月十九日に、「 昨年十月の台風十九号で、近くの杉の古木が根元から倒れ、文殊菩薩の石宮が倒壊し、虎列刺菩薩の石碑も倒された」と近所に住むご婦人から聞いた。
 この石碑は、三沢村中で祀っている。得体の分らない病気(コレラ)で赤芝の住民十九人が死亡し、退散を願って祀ったものである。
 平山村(現長井市)の新野伊三太(明治二十一年没、七十五才)が、明治期に書いた「歳々風雨物直咄集」には、コレラが流行する郷土の様子を次のように書いてある。

  はやり(流行)病ひ皆々大めいわく(迷惑)仕るハ、いやな(嫌な)るものにハ、これら(コレラ)と云病にて候、誠にうづりやすぎ(移り易き)病ひにて、日本一体(帯)はやり(流行)ける、大いに人死スル、然處此病にハ、いしゃ(医者)衆もこどこどぐせんき仕る所、此病ちさく虫成り、此虫をたやす(絶やす)にハ、せきたさん(石炭酸ヵ・主にコールタールからとる結晶で、溶かして消毒剤、防腐剤用)と云て、石灰(石炭ヵ)より取りたる油ト云、是を用ゆるなり、通用之人にも天長より此薬渡シ、ふり(降り)懸るなり、話しにわ此薬どぐ(毒)成り迚、人ミな(皆)いやがる(嫌がる)薬也、是うづらぬ(移らぬ)為の薬成りといへ共、皆心わるぐ(悪く )、他外に出来る事成り難し、其病之家ハ、廻りにかき(垣)を結、縄を張り、隣家ニ出入なしにさるるなり、此病にて人死スれハ、医者・羅発(邏卒・明治初年の警察の職種で、現在の巡査 )ト来りて、其家の者ニうばせて(かつがせて)焼所江持行、其家の者にも不見、薬懸ケて焼也、此焼場と云ハ、所々にて定り、山トが川原トが定置るヽ成り、死れハ身ほどりさめぬ内ニ、直ニ焼るヽなり、但シ人に見せぬ事にてハ訳有とて、人々皆咄ばなし成りしが、身さめぬ内ハ生肝同様成るニ仍而、其肝を取りたとの咄し(はなし)也、此肝外国ニ遣るなら、千円位の咄し有、此死たる家へハ、五人組たり共、親類たり共一切出入なし、其家江ハせきたさんト云水薬也、是を家内江多くふり懸る、寝所わ下敷迄もミな(皆)焼キ、せきたさん多くふり置るヽ也、皆人町用・小用、他村江も出来られぬ、此薬懸られけれハ、三年ほか生られぬ杯との口々咄しなり、乍去夫にておらぬ共、衣るい(類)江懸レハくぢる也、村々の境江は番小屋懸ケ、此薬を其所を通りさいも(際も)すれハ(すれば)かげらるヽ(掛けられる )、誠に他国商売之人、其間違ひ数多く是有なり、越中の薬買(売)杯は、其盛ヲしのぎ出来るなり、上方国ハ人死事夥し、諸方考ひ見ニ、水の清き所ハ無き方、悪水之所ハ多シ、此時御上より身の用心・喰物までも書たる書物渡るなり、
 と記述されており、安政五年に米沢藩がコレラ予防の方法を記して配布したように政府は書物を住民に配った。  
 このように、現代でも新型コロナウイルスに対しても徹底的な対策が求められている。

引用・参考文献
「南陽市史」中巻―近世―(南陽市 一九九一)
「南原郷土のあゆみ」(南原郷土史編纂会 一九八七)
米沢市文化財調査報告書第3集「米沢の神社・小祠・石造物」
              (米沢市教育委員会 一九九一)
郷土資料調査報告書「米沢の神社・堂宮3―窪田地区―」
(米沢市教育委員会 二〇〇八)
 同報告書「米沢の神社・堂宮十二―三沢地区―」(同前、二〇一八)
「長井市史」第二巻・近世編(長井市 一九八二)

(2020年4月30日17:00配信)